最終更新:2025-12-30
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序論:波動関数を表現するための「言葉」
Hartree-Fock法やKohn-Sham DFTにおいて、分子軌道を既知の関数(基底関数)の線形結合で表現するLCAO近似は、計算化学の最も基本的な枠組みである。 物理的に厳密なスレーター型軌道(STO)は、原子核近傍のカスプ(尖り)と遠距離での指数関数的減衰を正しく記述するが、多中心積分の計算コストが膨大となる問題があった。これを解決したのが、1950年のS. F. Boysによるガウス型軌道(GTO)の導入とガウス積定理である[1]。
以来、GTOを線形結合(短縮)してSTOを模倣する手法が発展し、Pople系やDunning系といった標準的な基底関数系が確立された。さらに現代では、DFTへの適合性を高めたKarlsruhe系やJensen系、相対論効果を取り込むSapporo系など、多様な選択肢が開発されている。本稿では、これらの基底関数系の数理的背景と設計思想を体系的に解説する。
1. 古典的標準基底:Pople系とDunning系
1.1 Pople系(Split-Valence Basis Sets)
1970年代から80年代にかけて、John Popleらは計算コストと精度のバランスを重視した基底関数系を開発した。これらは原子価軌道を内側と外側に分割して記述するため、Split-Valence基底と呼ばれる[2,3]。
- STO-nG: 最小基底系。n個のGTOで1つのSTOを近似する。
- k-nlmG (例: 6-31G):
- k: 内殻軌道を記述するGTOの数(短縮度)。
- nl(m): 原子価軌道の分割数。6-31Gなら、内側を3つ、外側を1つのGTOで記述する(Double Zeta相当)。
- 拡張機能: 重原子へのd関数(*)、アニオン記述用のDiffuse関数(+)を追加することで、分極や広がった電子分布に対応する[4,5]。
1.2 Dunning系(Correlation Consistent Basis Sets)
1989年、Thom Dunning Jr.は、電子相関エネルギー(Post-HF計算)の収束性に主眼を置いた相関整合(Correlation Consistent)基底系を提案した[6]。
- cc-pVXZ (X=D, T, Q, 5…):
- 各殻の関数が相関エネルギーに対して同程度の寄与を持つように設計されており、基底サイズ を大きくすることでエネルギーが単調に収束する。
- これにより、**完全基底関数極限(CBS limit)**への外挿が可能となり、高精度熱化学計算の礎となった[7]。
2. 現代DFTのデファクトスタンダード:Karlsruhe系とJensen系
2000年代に入り、DFT計算の普及とともに、従来のHF/Post-HF向け基底関数とは異なる設計思想の基底系が登場した。
2.1 Karlsruhe系(Balanced Basis Sets: def2ファミリー)
Karlsruhe大学のAhlrichsとWeigendらによって開発された基底関数系(def2-SVP, def2-TZVP, def2-QZVP など)は、現代のDFT計算において最もバランスの取れた選択肢とされている[8]。
- 設計思想: 全周期表(H-Rn)にわたり、一貫した精度(Balanced description)を与えることを目的としている。Pople系よりも系統的な精度が高く、Dunning系よりも(同等の原子価数に対して)原始関数が少なく計算コストが低い傾向がある。
- 特徴:
- 分極関数がデフォルトで最適化されて含まれている。
- 重原子に対しては、同じ設計思想で作られた有効内殻ポテンシャル(def2-ECP)がシームレスに利用可能である。
- これにより、有機分子から金属錯体まで統一的に扱えるため、特に無機化学・錯体化学分野で標準的に用いられる。
2.2 Jensen系(Polarization Consistent Basis Sets: pc-n)
Frank Jensenによって開発された、DFT計算に特化した基底関数系である[9]。
- pc-n (n=0, 1, 2, 3, 4):
- Dunning系(cc-pVXZ)が相関波動関数(CISD等)に対して最適化されているのに対し、Jensen系はDFT(B3LYP等)のエネルギー収束に対して最適化されている。
- 成果: DFT計算において、cc-pVXZよりも速く(より小さな基底サイズで)CBS極限に収束することが示されている。
- pcS-n / pcJ-n:
- pcS-n: 核近傍の記述を強化し、NMR遮蔽定数(Shielding)の計算に特化した基底。
- pcJ-n: スピン-スピン結合定数(J-coupling)のために、さらにタイトな関数を追加した基底。
- これらは、通常のエネルギー用基底では記述困難な磁気的性質を高精度に算出するために不可欠である。
3. 高精度・一般縮約型基底:ANO系とSapporo系
特定の原子軌道に縛られない柔軟な表現力を求めて、**一般縮約(General Contraction)**を用いた基底系が開発された。
3.1 ANO (Atomic Natural Orbital)
1987年、AlmlofとTaylorによって提案された[10]。高精度なCI計算から得られる自然軌道の係数をそのまま短縮係数として用いる。全ての原始関数を全ての短縮関数で共有するため、エネルギー精度は極めて高いが、積分計算のコストは増大する。
- ANO-RCC: 相対論効果(DKH)を取り入れた全周期対応版であり、CASPT2などの多参照計算で標準的に用いられる[11]。
3.2 Sapporo基底関数系
2000年代以降、北海道大学のグループ(Koga, Noroら)によって開発された[12]。
- 特徴: セグメント縮約を採用しつつ、ANOに匹敵する高精度を目指して設計された。
- Sapporo-DK-nZP: 3次Douglas-Kroll (DK3) ハミルトニアンを用いて最適化されており、相対論効果を考慮した全電子計算において、計算効率と精度のバランスが極めて良い。
4. 重原子計算の要:有効内殻ポテンシャル(ECP)
第4周期以降の重原子では、内殻電子の相対論効果と計算コストの増大に対処するため、内殻をポテンシャルで置き換える**有効内殻ポテンシャル(ECP)**が用いられる。
4.1 LanL2DZ (Los Alamos National Laboratory)
HayとWadtによって開発された古典的なECP基底[13]。遷移金属錯体の計算で長らく用いられてきたが、現代の基準では精度が十分でない場合がある。
4.2 SDD (Stuttgart-Dresden)
Stuttgart/Cologneグループによって開発された準相対論的ECP[14]。相対論効果の記述に優れており、多様なコア定義(Small core / Large core)が提供されているため、重原子を含むDFT計算のデファクトスタンダードの一つである。
5. 結論
基底関数系は、BoysによるGTOの導入以来、計算機の進化と共に分化・発展を遂げてきた。 有機化学反応の定性的な理解にはPople系が貢献し、高精度な熱化学にはDunning系がCBS外挿への道を開いた。そして現代では、DFT計算の効率を最大化するKarlsruhe系(def2)やJensen系(pc-n)、さらには重元素を含む精密計算のためのSapporo系やSDDが強力なツールとなっている。 「どの基底関数を使うべきか」という問いに唯一の正解はない。対象とする分子のサイズ、求められる精度、そして計算資源の制約を考慮し、先人たちが築き上げたこれらのツールセットから最適なものを選択する洞察力が、計算化学者には求められている。
参考文献
- S. F. Boys, Proc. R. Soc. Lond. A 200, 542 (1950).
- R. Ditchfield, W. J. Hehre, and J. A. Pople, J. Chem. Phys. 54, 724 (1971).
- W. J. Hehre, R. Ditchfield, and J. A. Pople, J. Chem. Phys. 56, 2257 (1972).
- P. C. Hariharan and J. A. Pople, Theor. Chim. Acta 28, 213 (1973).
- T. Clark et al., J. Comput. Chem. 4, 294 (1983).
- T. H. Dunning Jr., J. Chem. Phys. 90, 1007 (1989).
- D. Feller, J. Comput. Chem. 17, 1571 (1996).
- F. Weigend and R. Ahlrichs, “Balanced basis sets of split valence, triple zeta valence and quadruple zeta valence quality for H to Rn: Design and assessment of accuracy”, Phys. Chem. Chem. Phys. 7, 3297 (2005). [def2]
- F. Jensen, “Polarization consistent basis sets: Principles”, J. Chem. Phys. 115, 9113 (2001); J. Phys. Chem. A 112, 11029 (2008). [pc-n]
- J. Almlöf and P. R. Taylor, J. Chem. Phys. 86, 4070 (1987).
- B. O. Roos et al., J. Phys. Chem. A 108, 2851 (2004).
- T. Noro et al., Theor. Chem. Acc. 131, 1124 (2012).
- P. J. Hay and W. R. Wadt, J. Chem. Phys. 82, 270 (1985).
- D. Andrae et al., Theor. Chim. Acta 77, 123 (1990).
